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 さわやかな冷気と美しい光にぼくらはつつまれていた。

 飛行場のなかでまごまごしている間に夜は明けた。太陽の冠を被った山なみは心なしか故郷の光景に似ている。中年以上もちらほら見えるバックパッカー連中の屯しているバス停に立つと、オモニヤと思われる文字を表示したバスがすぐにやってきた。オモニヤ行きなら目的のシンタグマ広場を通るはずだが、念を入れるに越したことはない。運転手の親父に「シンタグマ?」と訊けばイエスと自信たっぷりに答える。チケットの自販機まで走りコインを入れたが何も出てこない。コインが偽金か単なる故障か。と思う間にバスは行ってしまった。バックパッカー連も、もういない。薄情な連中だ。どっちにしろチケットは出てこないんだから運ちゃんから買うしかない。1本やりすごしてから乗り込み400ΔPX.(ドラクマ)渡せば、切符2枚と20ΔPX.のお釣り。真ん中にあるパンチで穴を空けるのだよ・・・と教えてくれた運ちゃんはりっぱな髭を鼻の下につけ、少しインテリジェンスを匂わせる顔だちの親父だった。少なくともぼくらより正確で流暢な英語を話している。空港のイメージと違いバスは近代的だ。まるで今からシャルル・ド・ゴール空港に向かうみたいだ。夜明け直後の光線のせいかもしれないが、街並はきれいなものに映る。道沿いには自動車メーカーの看板が目立つ。中に一つだけアップルコンピュータの看板があり、いやに嬉しくなった。

 シンタグマ広場前で降り、アタリをつけていたホテルへ向かう。この大きな道路はもう少し時間がたてば排気ガスが気になるかもしれないな。頭の片隅でチラと考えながら細い路地に折れると、石畳がちょっとヨーロッパしていた。そのホテルのちょっと手前まで来ると、入り口にサングラスを掛けたちょび髭親父がちょうど出てきた。試しにカリメーラと一発ギリシャ語をおみまいしてから、ヘヤアルカイ?と拙い英語で訊いてみた。カタコトの日本語まじりでちょび髭チョビンの言うことにゃ、「とても良い部屋が空いている。君の名前は前の天皇の名前とよく似ているね。7000ΔPX.だ。部屋にトイレもシャワーも付いているよ。今はまだ人が入っているので、荷物を預かっておくから中庭の見える所で朝食でも食べてきてはどうですかな。お金は前払いになってるんですよ。はい、領収書。部屋は4号室、二階ですよ。じゃあまたあとで、エファリストー!」・・・だと我々二人の頭脳は理解した。

 中庭の見える所にはいつ案内してくれるんだ?とその辺に置いてあるパンフをパラパラしていても一向に事は運ばない。チョビンは中に消えたきり現れようとはしない。あ。これはこのホテルでめしを食わせてくれるのではなく、どこか適当に外で食べてきなさいということらしい。当り前すぎる話なのに、そんなことにも気がつかないとはこれから先が思いやられる。

 もう7時半は回っているのに店はどこも開いてないし人影もまばらだ。カフェらしき店も椅子をテーブルの上にひっくり返したままで、夕べ朝まで飲み明かしていましたという風情である。怠け者なのかよっぽどの夜遊び好きなのか。普段なら自分だって寝床の中のくせに、勝手なもので妙に気にかかる。小さな小さな公園のベンチに腰掛けると、新聞だか布だかシュラフだかを被って寝ていた一見フローシャのようなバックパッカーのような人物が、ムクムクと起きだした。よく見ると女の人のようで、貧乏旅行をどこまで耐えられるかを実践しているかのごとくで、鬼気迫るものを感じずにはいられなかった。『うーん、せっかくいい調子で寝てたのに邪魔が入ったわねえ』とでも言いたげに、彼女はじろりと一瞥をくれて、のそのそと公園を退場した。悪いことをしたかもしれないと思うと同時に、あそこまでしないといけないほど物価が高いんだろうかという不安が私の胸に去来した。うそだけど。

 駅らしき所に入ってみると、大きな籠を地面に置き、二周りほど大きいドーナツ状のものをディスプレイして、おっちゃんが後ろにつっ立っている。瞬間この人は商売をしているのか、それともアテネ名物前衛芸術おじさんの一人なのかと疑ってしまうほどの立ちっぷりである。5mほど真横にいる雑誌売りのおじさんと、真正面を見たまま直立不動で喋っているからだ。しかしそれでも商売は成立しているらしく、通勤らしい女性(推定26才)が当り前のように、すばやい動作で買い求め無人の改札の向こうに消えたりしている。また、別の街角では、65才くらいのおじ(い)さんが一人っきりで声もあげなければ、動きもしないで同じようにつっ立っている。まるで商売っ気がないが、ちょくちょく売れているから不思議だ。このスタイルが正統的な売り方なのかもしれない。協議の結果、晴れて我々も一つ買い求めることに決まった。

 ドーナツ状ではあるが揚げているのではなく、クッキーかパンのように焼き白胡麻をまぶしてある。1個50ΔPX.。ほんの少し固めでいかにも香ばしい。うまい・・・。のでもう1個。もぐもぐ。さらにまた別の広場でも、5m離れた編物上手の雑誌売りおばちゃんとおしゃべり中の正統派おじさんから巨大ドーナツ1個100ΔPX.を買った。これは本物の揚げドーナツだ。ギリシャでのおいしい生活・・・これは期待できるかもしれない。気をよくしたところでようやく開いているカフェを見つけたので、グリークコーヒーを試した。グリークコーヒーとはいわゆる上澄み式コーヒーの類いで、挽いた豆にお湯を注ぎ、その上澄みを直接いただくものであるという予備知識はあった。この時点では、以前お土産で飲ませてもらったバリコピの方がコクがありおいしかった様な気がする。

 ホテルに戻ると、チョビンはいない。声をかけてみる。
 「ハロー。カリメーラー」
 「ハーロォー」
 上から女の人の声が聞こえる。トントンと階段を降りてきた。20台前半で手には掃除道具を持っている。
 「ハーイ。メイアイヘルプユッ?」
 「エート、あのう・・・」
 「あ、今朝早く部屋を予約した人たちね。ごめんなさい、チェックアウトが11時30分なの。それから掃除だから12時になってから戻ってきて」
 今度は言っていることがハッキリ分かったような気がする。

ΨΨΨ

アキ・カウリスマキ
現代フィンランドを代表する映画監督。ちなみに、わたくしのベスト3は「真夜中の虹」「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」「コントラクト・キラー」。「真夜中の虹」のミッコネン役マッティ・ペロンパーは必見。と勝手に決めている。
ヘルシンキにあるカウリスマキが経営する映画館に行くのも、この旅の目的の1つ。

 「これからの予定を決めようよ」とテが言う。
 もう勘弁してほしいと思う。時差ボケもあるし第一睡眠不足なんだ。どこにこれだけのパワーがあるのか。普段ならすぐ疲れたーだの肩凝ったーだの言うくせに、いったん興味のあることにぶつかるとぐいぐい引っぱってゆく。この何とか云う大聖堂を傍に入った広場のベンチでこのままぼくは眠ってしまいたい。雀の鳴く声がさらにねむけを誘う。

 歴史民族資料博物館から解放されたのは、そろそろ昼時だった。観光客御用達の表参道を歩いていると、明らかに地元のおっさんしかも見るからにムクツケキ野郎どもが並ぶ小さい食い物屋を発見した。この手の店はうらぶれた路地裏か、市場の脇が相場だから、おっさんどもの存在がなければ見過ごしていたかも知れない。異様な迫力でその部分が目に飛び込んだ。

 あさってを向いて椅子に座りかぶりつく男。別のあさってを見たまま、酒らしきものを煽り亭主と喋舌る男。ぼくを振り返りにやッと笑ったとっつぁんは、片言の英語で何かを説明したと思ったら、休みなしに一本それを食ってコカコーラを飲み干し、もう一本と注文していたりする。これは絶対に食わねばならんぞよ、と食いしん坊の神様が囁いた。

 それがスブラキと云うやつでギリシャの名産にして主食、どう見積ってもぼく好みの食い物だ。店は野球帽を被った亭主一人で切り盛りしている。フィンランドはアキ・カウリスマキ監督の『真夜中の虹』に出てくるミッコネンに似ている。軒先には子どもの頭くらいの玉葱を吊らくっている。ミッコネンのいる陣地は大分狭い。鉄板の上で肉の串刺しを焼き、その上でナンの様なパンを焼く。あとで訊いたらピタと云うらしい。ピタが焼けると、バットに盛り分けてある具──玉葱・トマト・ピーマン──をトングで載せ、サワークリームみたいなのをスプーンで勢いよくかける。ピタを二つに折り、焼きあがった肉を挟み串を抜く。塩と赤い香辛料を老練のバーテンダーよろしくシャカシャカと振りかけ、紙にくるりと巻き客に手渡す。この一連の所作が滞りなく、上等の舞よろしく運ぶから恐れ入る。男どもは皆二本三本はその場で食い、持ち帰りも二本位頼んでいる。食いたいだけ食い店を離れる時にまとめて支払うシステムだ。ミッコネンは職人気質だから金には触らない。それ専用の巨大毛抜きで、お札を受け取りお釣りを返す。ますます素晴しい。エクセレント。

 男どもの陣取り合戦にようよう紛れこみ遂にぼくの番が来た様に思うが、ちっとも注文を聞こうとしない。ミッコネンはさっきからシャカシャカやっては上の棚に並べている。心なしかこちらを見てにやりと笑った様な気もする。馬鹿にしている。イチゲンサンお断りなのか。いつになったら注文できるんだ。こうなったら日暮れになっても待ってやる。

 棚に並べるのを十本勘定した頃、工事現場の若い衆らしきクマゴローが現れ、残らずかっさらって行った。ミッコネンはこちらを向き『さて』と云う顔をしている。当り前のように二本注文したら、肉は苦手なはずのテなのに一本ペロリと食べてしまう。勿論もう一本ぼくは注文した。

(1)タナ=でき上がったスブラキをここにぽんぽんと並べる。

(2)包み紙

(3)調理場

(4)材料入れの陳列ケース

(5)折り畳み式のタナ=おっさんたちはここにコーラなどを置いて、じっくりと腰を落ち着けている。

(6)戸締り用の戸
パタンと閉じれば戸締りができる(らしい)。シャッターなんかはない、屋台発展型の小ぶりな店。アテネ滞在中(約一週間)日参したけれど、ついに二度とこの戸が開いているのは見られなかった。親父は、気が向いた時しか店を開けないのか!? だから地元のおっさんたちは、次はいつ食えるかわかんねェとでもいうように、食いだめをするのだろうか・・・?

(7)巨大たまねぎ=これがぶら下がっていたら、今日は開けるゾよ・・・という目印なのかもしれん。

(8)お金入れと巨大ケヌキ
お札を入れると、うまいことつかむことができなくて、とうとう照れ笑いを浮かべてから素手で取り、お釣をくれたのでありました。

ΨΨΨ

 戻ると誰も見えやしない。ハーローと言ったりブザーを鳴らしたりベルを引っぱってみたり。
 ようやく出てきたハーイお姉さんに通された部屋を見てガクゼンとした。シャワーやトイレはどこにある・・・?まあそれはいい。ひどく小さいベッドが二つ。水の洩れる洗面所。小さな窓。暗い部屋。
 トイレに入ってみる。壁ひとつ隔てただけの隣にあった。慥かに昔は我々の部屋の付属物だった形跡はある。
 『紙は流さないでください』
 『ギリシャは乾きつつある。水は最小限に。さもなければ罰金です』
 『洗濯はしないでください。あなたはすぐにコインランドリーを見つけることができるでしょう』
 やれやれ。なにが悲しくてトイレの中で貼紙の嵐を眺めにゃならんのか。
 やれやれ。シャワーやトイレが部屋にないのは構わない。信じて疑わなかった事と云うものがある。我々の頭脳の程度にやれやれである。全く我々の英語力は二人で三分の一人前だ。

 明日のためにさっそくホテル探しをすることが全会一致で可決された。のんびり寝ている暇はない。歩いて2分の所にこぎれいなホテルを発見する。訊いてみると明日・明後日と空きがあり、イレブンサウザンズホニャララドラクマス・ウイズ・ブレクファスト・パー・ワンデイ、部屋にシャワー・トイレがついてこの値段はベターなプライスですよ、とその『コントラクト・キラー(監督アキ・カウリスマキ)』の主人公(ジャン・ピエール・レオ)に似た男は言った。今度はぬかりなく部屋を見せてもらう。木洩れ日さしこむ明るい部屋だった。これでテの第一条件はクリアしている。問題は私の第一条件である。壱萬を超えるのはちょっと贅沢すぎるのではないか・・・と気がひけている。しかし朝食付きだし第一これ以上探すのも面倒だ。よって明日から二日間わらじを脱ぐことに決定した。めでたしめでたし。

 部屋にいったん帰り、眠ってやろう、うしし・・・と思ったが時差ボケ対策も兼ねて我慢することにして、この長い半日の日記を書いていたらもう夕方だった。しまった、コインランドリーを探さねば。6時ごろだというのに街はゴーストタウン化している。イタリアで同じようなシチュエーションの時、昼間はひっそりかんだったのに夕方になるとわいわいゾロゾロと人が溢れだし、老いも若きもアイスクリームぺろぺろ状態・・・と云うのにびっくりしたことがある。それに比べここは首都だと云うのにヒュウと風が舞いひどく寂しい。宿の親父(チョビンとは別人)に教えてもらった方向に行くがさっぱり見つからない。貼紙にはすぐ見つかると書いてたはずなのに・・・ヒアリングができないのは許せるが書いてあることも約せないのか。情けなくなったから帰って寝ることにした。

ΨΨΨ

 8時半ごろ、何もそこまでしてという思いをして起き、晩餐をとりに出かける。本日最後のメーンエベントなのだ。テが目星をつけていた店は閑古鳥が啼いている。過去の経験から検討した結果、夜の街を再びさまよう。観光地表参道通りはなかなかの賑わい、通りを歩けば名刺が増える。ハローミスタ、ハイブラザと客引きの嵐、断わるとサッと名刺を差し出す。神殿の丘の辺りは最も激しく、「ここからはライトアップされた素晴しい神殿が眺められますよ」「うちは美男美女のフォルクローレダンスショーがお楽しみいただけますよ」どれを聞いても興味をそそられないキャッチコピーばかりである。みんな慇懃ではあるが、その実、奥底では何を企んでいるのかわかったものではない。

 怪しいといえば、どの店も怪しい。ええいままよと、一番怪しくていかつい、そしてどことなくレニングラドカウボーイズのリーダーに似ているおっさんの店に、案内してもらうことにした。
 屋上は少し肌寒く、壁際の席はどこも人が座っていた。下のほうでは生演奏と踊りのショー、上を見あげればアクロポリスの丘がライトアップされている。キャッチコピー通りだが、別に嬉しくはないので、さっそく料理を注文した。ボーイは、太ッちょさんと、二枚目くんの凸凹コンビだ。
 ビレッジソーセージ、オニオンスープ、ムサカ、サラダドセゾン、ミネラルウォーター。
 料理はどれもレモンがたっぷり効いていて、特にオニオンスープは恐ろしくすっぱい。思い出しただけで、ビタミンCが補給できそうな程であり、今のぼくたちの体にはとてもおいしい。

 隣のフランス人軍団が去ると、「グドイーブニング」とアメリカのスマートな銀行員のような、ビデオ小僧おじさんがやってきた。この「グドイーブニング」は、ぼくにはなかなか言えない。さすがはミスタースマート、伊達にアメリカ人をやっているわけではない。もしかしたらイギリス人かもしれないけど。

 めしも食べ終わると、夜風が冷える。太ッちょさんが通りかかったので、人さし指を立てて呼んでみた。「ふぁい」とか言いながら近づいてきたけれど、英語でお勘定はなんていうんだろうと悩んだら、つい教養が出てしまい、「ラディションシルブプレ」といってしまった。太ッちょさんもつい、教養がでてしまったのか「ウイ」と降りてゆく。

 5000ΔPX.きっかり置き、ビデオ小僧ミスタースマートにグナイとあいさつをこなし、太ッちょさんと二枚目くんが口喧嘩している間をすり抜けると、リーダーがアクロポリスの丘を見あげていた。肩をたたき、うまかったよと、親指を立ててみせると、「グレートでビューティフルだったろう」と、肩をたたきながら握手を求めてきた。握手すると、リーダーの手はどデカかった。

(c)1995-2002 HaoHao

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