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 やつぱりここは今までに来たことのない国なんだと、彦三郎は改めて気がついた。
 調べてみると、昨日の朝に食べたゴマつきパンはクルーリーという名前らしく、今日は日曜日だからなのか雨だからなのか、どの正統派担い売りも見当たらない。しかたないねえと、二人は安そうなカフェーを探した。
 「ねえ彦さん、あの看板つてパリでよく見かけたカフェーのと同じじやないかしら」
 「ふうむ、そのようだねえ。じやあ、そこにしようかな、丁度外の腰掛けも空いているみたいだからねえ」
 それは緋色地に稲妻の模様をあしらつたマークで、確かに見覚えのあるカフェーのようだつた。安いのかそうでないのかは、今のところ判然としないけれど、少しでも知つている点があるというのは、安心できると思う彦三郎なのである。
 「あれえ、これは何かの間違いじやないのかねえ」
 運ばれたエスプレッソコーヒーを見て彦三郎は声をあげた。ただでさえ少ないデミタスカップなのに、そこに入つているのは、泡をいれても五分が二ほどなのである。莫迦にされているのではないのかねえ、と唄栗段兵衛になりそうである。
 「彦さん、ここはギリシアなんですよ。そういうものなのかも知れないんですからね、あんまり自棄をおこさないでくださいよ。それより、何かを食べましようよ」
 あくまでも冷静な小輝の言葉に、彦三郎は自分の置かれた立場を改めて思いかえした。
 「このチーズはなかなかあつさりしてて、おいしいもんだねえ。今までに食べたことのない味だよ、小輝姐さん」
 「そうですねえ、もしかしたら羊のチーズなのかしら」
 初めは、一番安いサンドイッチを注文したところ、「旦那、そいつだけ今は品切れなんでさ、勘弁しておくんねえ」と、又も唄栗の旦那になりそうなことを言われた彦三郎、少しは大人になつたようだから、「ああ、そうかえ」と大人しく、次に安いモツァレラというのを注文した。モツァレラというのは確か黄色かつたがねえと思い出している彦三郎だが、運ばれてきたものは瑞瑞しい白チーズであり、それが案外といけるもので、気分よく店をあとにするころ、雨もあがり光りが差し込んできはじめた。何とか云う大聖堂から渋い喉の読経が聞こえている。

ΨΨΨ

 気持ちいいほどに晴れあがつた空の下、彦三郎と小輝はアクロポリスの丘への坂を上つている。昨夜も通つた道ではあるが、印象はガラリと違つて見える。まだ朝が早いのか、それともミサに出かけているのか閑散としていて、黄色い壁に青い窓枠、煉瓦色の壁に渋緋色の戸、緩やかな石畳、どれをとつても気分は写真師である。しまつた、写真機を忘れたみたいだねえと、彦三郎がおでこに手をやつていると、渋緋色の戸のところに、帽子をちよこなんと載せた老爺がこちらを見ている。この場合の挨拶はなんだつけねえと思い出そうとはするけれど、どうやら無理のようだ。日本人の悪い癖と言われるかも知れないけれど、むつつりとしているよりはましだと、ニカリとしようとする矢先、
 「カリメーラ」
 と、老爺が言つてくれた。
 「カリメーラッ」
 元気良く挨拶を返し、漸く異国情緒がでてきたようだねえと、ちよつぴり嬉しくなる二人だつた。
 神殿に近づくにつれ、辺りは賑やかになつている。見るからにおノボりさん然としたおじさん、おばさんが、写真機を首に引つかけ一、二、三と掛け声も高らかに撮影に忙しい。そういう光景を普段はあまり喜ばしく思つていない彦三郎だつたが、どういう具合か憎めないでいる。異人さんだからなのか、ここがギリシアだからなのか、はたまた皆が示し合わせたかのように爆発的におなかを突き出しているからなのか。神殿そつちのけで、このおじさんおばさんたちが二人を楽しませてくれた、幸せな朝だつた。

ΨΨΨ

 彦三郎と小輝の新しい宿はホテルネフェリといつて、さほど大きくない通りの角に面している。角の側にある一本の大きな木が、涼しげな木陰を宿につくつている。左隣りの家には桐の木もあり、そのことが小輝をうきうきさせていた。どういう訳か小輝は木があると落ち着く質だつた。帳場には昨日と同じ男がテレビを眺めて、別段愛想を言うこともなく二人の挨拶に応じただけで、鍵をさッと差し出した。

 エレベータに乗ればいいのに、よたよたと階段を上りやがつてなんだいあいつらは、あんなよれよれの格好をして、支払いは大丈夫なのかね、ま、日本人だから間違いはないと思うけどよ、あ、いらんこと考えてたらいいとこを見逃すところだつた。いけねェいけねェ。ん、なんだ。さつきの男が降りて来やがつた。不精ヒゲなんぞつけやがつて全くムサい面だぜ。鍵をブラ下げて何か言つてやがる。換えろ換えろだ?うちの国の言葉を喋れとは言わねェけど、英語ぐらい喋れるようになつてから来やがれッてんだ。単語の連発ばかりしやがッて。なに、部屋を換えろだ?ま、いいか。どうせ部屋は空いてんだ。はいよ。

 「まあ彦さん、なかなか上首尾じやないの。でも昨日見せてもらつたのと違う部屋に通されたんだから、換えてもらつてもバチは当たりませんよねえ」
 「うむ、わしの英語もたいしたもんだねえ。やつぱり何でも言つてみるもんだねえ」
 「ほんと。これからはそれをウチの家訓にしましようかしら」
 どこまでものんき者の二人だつた。

ΨΨΨ

 (あれえ)
 昨日のように待つのはかなわないから、午になる前にいそいそと出かけた彦三郎。件のスブラキ屋の前だけカンサンとして誰もいない。
 (ハテ面妖な。他の店は開いてるのに、ここだけ休みとはねえ。仕方ないからあちらの店の味をためしてみようかねえ)
 そこから二三軒坂を上つたところ、件の店よりは広い感じの店構え。客は一人二人。どこといつて特長のない親父が、上からブラ下げた巨大な肉の塊をチリトリに削つている。肉のあいだでトマトらしき野菜も一緒に焙られている。件の店とは何もかも違う。これはパリでよく見かけるアラブ式のものとそつくりだ。パリでは食べたことのない彦三郎だが、ようやくためす機会に巡り会えた。
 削り取つた肉、トマト、玉ねぎの中身で味はあつさりしている。こちらも悪くはないが、やはりあのスブラキをもう一度は食べたい。ギリシアと云うと魚ばかり食わされるのかと恐れていたのが、このスブラキという食べ物は名前は同じでも色々違いがあるらしいし、その上に値段も安く味もいいときてるから、ちょつぴり嬉しくなつた彦三郎、思案の他に口に合う国なのかもしれないとほッとしている。

ΨΨΨ

 「バスチケット・ツー」
 キオスクとおぼしき店の悲しそうな顔の親父にそう言つて買つた切符で乗つた黄色い乗り合いバスの中、小輝の提案で向かつているのはアテネに来たらみんな訪れると評判の博物館である。停車場まではスンナリわかつて乗り込んだものの、イザ肝心の降りる段になつて迷つている思案顔の二人。
 それを知つてか知らずか、三つ揃えから帽子まで黒づくめの老人が助け舟を出した。
 「あんたがたが行きたい所はこの次の停車場じゃよ。ほれ、着いた、着いた。さあ、降りなされ」
 礼を申しのべ、降りて少し歩くと慥かにそれらしい建物があらわれた。
 「まあ、ギリシアの人つてなんて親切なのかしら」
 「ふうむ、それによくわしらの行きたい所がわかつたもんだねえ。あのご老体は千里眼を使うのかねえ、それとも狐につままれているのかねえ」
 言葉がわからなくてもフンイキで察するのか、異人はみな悩むと相場が決まつているのか、はたまたあの爺さんは人に道を教えるのを唯一の道楽にして毎日バスに乗つているのか。やはり、親切心から教えてくれたに違ない。まことに道中しやすいギリシアなんだと二人は感じ入つた。信号待ちで停まつていたバスの中から黒づくめの老人が控えめに手を振るのに、二人揃つて手を振りかえしている。

(c)1995-2002 HaoHao

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